距離と超えて得られる情報と手の届く現実

テレビやインターネットからは、あらゆる情報を得ることができる。長崎に住んでいても、東京で起きたニュースを知ることができ、アメリメジャーリーグの映像を見ることができる。ある出来事に対して、コメンテーターやら専門家が話す知的な意見を聞くことができる。相当の時間と費用をかけて取材した記事を新聞雑誌で読むことができる。

情報インフラが発達したおかげで、私たちはあらゆる手段でたくさんの情報を知ることができる。あんなことも知ってる、こんなことも知ってると、ちょっと聞きかじっただけで知ったつもりになって、いい気になってる。でも、本当ならそれは等身大の自分で得られるものじゃなくて、誰かが努力して集めてきたものを拝借してるだけなわけだ。そんなもん、ほんとの自分の知識じゃないよなぁ。。。

先日、沖縄は読谷村で保育士をしている人と話す機会があった。子供達を畑に連れて行って、野菜はこうしてできるみたいなことを教えていると話していた。今時の子供は、スーパーに並んでいる野菜しか見たことがないから、どうやって野菜ができているのかを実際に見せて、体験させているのだそうだ。

遠く離れた世界で起こっていることは知らなくても、自分が生きるために必要なことは実感として知っている。自分自身の体験と感覚で知っている。

情報は確かに大事ではあるんだけど、そこにばかり目が行ってしまうと、自分を過信してしまいがち。情報は誰かの手によって、集められ、加工されて私のもとに届いている。自分が目の当たりにして得たものではない。ほんとに自分が実感として得られる知識なんて、ほんの少しかもしれない。

体感の伴わない知識で、自分を過信しないように気をつけないと。大事な判断をする時は、やはり自分の目で見て、自分の耳で聞いて、体感することだな。

読谷村生活の話は、気付かされることが多かった〜、感謝です。